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日本5月5日男孩节起源

发布时间:2017-05-05 15:11:43 阅读量:1718

55日はこどもの日 端午の節句の起源は川魚にあげた餌だった?

 5月の大型連休の中核をなすのは、なんといっても55日の「こどもの日」。「端午の節句」をルーツにする祝日です。
 33日の雛祭り(上巳の節句)は女の子が主役の日で、こどもの日(端午の節句)は男の子の日というイメージがあるのではないでしょうか。実はこれ、端午の節句の長い歴史からすると、ごく新しい伝統なのです。この節句の輸入元である中国では、男の子の日という認識もなく、日本独自の伝統になっています。
 端午の節句の起源は、紀元前三世紀頃の中国にあります。その頃の中国は、楚(そ、紀元前11世紀~前223)が支配していました。四面楚歌という四字熟語でお馴染みの楚の国です。

端午の節句に粽を食べるわけ

 楚の国には、優れた政治家として知られた屈原(くつげん)という人物がいましたが、陰謀により失脚。楚の行く末を案じて絶望し、汨羅江(べきらこう)という川に身を投げて自ら命を絶ってしまいました。ちょうど、今くらいの季節だったそうです。
 良い政治を行って慕われていた屈原ですから、その死を知った人々は嘆き悲しみ、屈原の亡骸が川の魚に食べられないよう、川にたくさんの粽(ちまき)を投げ入れて魚の餌にした、といわれています。

なぜ魚の餌に粽を、と思ってしまいますが、それは古代中国の風習が関係しています。急に暑くなり体調を崩しやすいこの季節から夏至にかけて、精のつく粽(肉粽)を食べる風習があったといわれており、粽が手元にたくさんあったからかもしれません。
 後に、この季節に屈原を偲んで川に粽を投げ入れたり、粽を食べたりして慰霊する祭りが行われるようになりました。やがてこの祭りは中国全体に広まっていき、屈原が優れた政治家であったことから、国の安寧を祈念し、疫病や災厄を祓う行事になりました。
 この行事はもともと、旧暦の午の月(5月)のはじめ(端)の午の日に行われていましたが、午が五に通じることから、毎月5日を祝い日とするようになり、魏(ぎ)の時代(220265)には5が重なる55日が端午の節句と定められたようです。旧暦55日が屈原の命日との言い伝えもありますが、定かではありません。
 端午の節句の日には、粽を食べるほか、薬草摘みをしたり、蓬で作った人形や菖蒲の束を家の門に飾ったりする風習が定着しました。蓬や菖蒲は邪気を祓い、毒除けになると考えられていました。
 この端午の節句の行事と風習が奈良時代の日本にもたらされました。平安時代の宮中では貴族たちは薬草摘みをしたり、菖蒲の髪飾りをつけたり、菖蒲酒を飲んだりしました。また、天皇からは蓬などの薬草を丸めた薬玉が下賜されたといいます。もともと祓い清めの大好きな日本人には、ぴったりの厄除行事だったのでしょう。

いつの間にか男子の祝いに進化

 さて、ここまできても未だに男の子の話は出てきません。男の子がようやく絡んでくるのは、武士の世となった鎌倉時代になってから。厄を祓う菖蒲が武勇を重んじることを意味する「尚武」に通じることから、端午の節句は武士→男子→男の子の祝いへと、日本独自の進化を遂げていきました。先端が尖った菖蒲の葉が剣に似ていることも、この進化の一助となったようです。
 江戸時代になると、端午の節句は幕府が公的行事として定めた五節句のひとつに選定されました。民間では立身出世の縁起物の鯉のぼりや武者人形などが飾られ、男の子の健やかな成長が祈念されました。

私がご奉仕しております日本橋の福徳神社では、55日の端午の節句には、こうした古代中国から近世に至るまでの端午の節句の進化が分かるような展示をして参拝者をお迎えしています。最近は都心ではなかなか鯉のぼりを見る機会も減り、住宅事情などから端午の節句のお飾りもされなくなってきています。お参りの際には、中国から伝わった伝統、日本で育まれた伝統を感じて頂ければと思っております。